広島エイト倶楽部の昔話

ここの写真は元広島エイト倶楽部員の迫田佳伸氏からお借りしたものです。 普通では残っていない貴重な秘蔵写真の数々です。 迫田佳伸氏にはこれらの写真をきちんと整理され保存されたことに対して敬意と感謝をします。↓が古く↑が新しい写真です。

 


迫田佳伸氏の最高傑作「ふたりぽっち」(1970年~1975年)

迫田佳伸氏の最高傑作にして、ドキュメンタリーとして末永く記憶に残る作品であるといえるでしょう。 この作品は山奥での分校の双子姉妹と先生のふれあいを描いた感動的な作品です。 実は、迫田佳伸氏はこの小学校の本校の卒業生で、分校に双子の姉妹が入学すると聞いて直ぐに撮りに行ったそうです。 迫田佳伸氏は4年間、幾人もの人に撮影を協力してもらいながらこの分校に通い撮り続けました。 最後は分校の廃校式で終わるのですが、このシーンは涙なくしては見れません。

 

 この作品は第1回ヒロシマ国際アマチュア映画祭でグランプリを取ったほか、第8回”キヤノン8ミリコンテスト”でも最優秀賞を取った作品です。 なんと迫田佳伸氏は初受賞がこれですから素晴らしい。 ちなみにこのときは国内から140点、国外から59点が出品されています。

撮影(1970年) 

第1回ヒロシマ国際アマチュア映画祭の表彰式(1975年8月4日)


映画の一コマ

RCC-TVで製作途中を放映(1972年9月1日)


 

迫田佳伸氏は受賞の喜びにとどまらず「大きなふれあいという宝物」を手にしたと語っていました。

再会(1975年8月31日)



第10回公開上映会(1968年11月23日)

広島信用金庫本店で行われた第10回の記念映写会です。

 

総勢48人

上映会の挨拶



「ヒロシマ」の入賞発表会(1967年10月)

東京で「ヒロシマ」の入賞発表会のときです。 ウヒャー、新婚夫婦はまるで高校生カップルみたいです。

 


若草学園での慰問映写会(1965年12月19日)

加茂郡西条町にある若草学園で映写会です。 映画を見ることが少ない子ども達にとって素晴らしい思い出になったのだろうと思います。

 

45人が集合

61人が集合



映画「聖火広島を行く」の撮影(1964年9月20日)

広島を聖火が通っていくさまを約20台の8mmカメラで追った作品です。 日本で初めてのオリンピック、東京オリンピックは心を熱くさせた、いつまでも記憶に残る日本の一大イベントでした。 当時の8ミリカメラはゼンマイ式で約40秒間くらいまでしか撮影できなかったので2人1組で交互に撮影をしました。 運動部の2回目の作品です。

 

カメラマンやスタッフの面々20人 

平和公園の聖火



中国放送のテレビ出演(1963年12月4日)

広島相互銀行提供「私はNo.1」という番組に出演で録画中です。広島エイト倶楽部は数々の賞に輝いていましたので出演したということでした。

 

出演中 左側は井尾義信アナウンサー



浜田シネクラブを訪ねて(1963年7月)

故・松原博臣氏は広島、島根、山口のアマチュア映像仲間を集めた中国小型映像連盟の会長でもありました。

 

29人の集まり 

浜田港


交流会の後に有福温泉へ泊まったときの写真です。 2ショットの迫田佳伸氏です。 こんな可愛い人が彼女!ニャロメ!

 

御一行様

当時28歳



映画「空洞」の製作(1963年5月~8月)

1963年富士8ミリコンテストで銀賞を受賞しました。 この作品は白黒フィルムを使用した。 カラーで撮ったら金賞は確実だったようです。 カラーフィルムを使って欲しかったメーカーの思惑があったようです。 文化部の初めての作品です。

 

出会いのシーン(三滝橋) 

池のほとりの散歩のシーン(五日市八幡)


東京での授賞式には4人が参加しました。

 

 診察のシーン(聖ヶ丘医院) 

演出の川本昭人と主演の2人(東京朝日新聞社講堂)



下関へ家族旅行(1961年5月)

家族をつれて下関まで旅行です。 まさに家族ぐるみの付き合いだったようです。

 

33人が集合

下関水族館 迫田佳伸氏



映画「キャンプインしたカープ」の撮影(1961年2月12日)

広島カープの呉キャンプを記録した映画です。 初代会長の故・松原博臣氏は大のカープファンでした。 なぜか初代ミス広島の藤井なち子さん(白い帽子)も写っており華やかです。 当時の広島エイト倶楽部には運動部と文化部があり、「キャンプインしたカープ」は運動部の初回の作品です。

 

藤井弘選手(中央)

広島カープや広島エイト倶楽部の面々



第1回と第2回公開上映会

初代会長の故・松原博臣氏(2003年8月29日没)はまだ頭髪が残っており若々しい姿です。 このとき38歳でした。 82歳で亡くなられるまで44年間以上も、日本のアマチュア映像作家の指導者として活躍されました。 男性は全員ネクタイで、女性は和服姿もあって豪華です。

 会場は両方とも広島准看護学院です。 このときの名前は「倶楽部」ではなく「クラブ」になっており、「上映会」ではなく「映写会」になっていますね。

 

第1回(1959年12月13日)

第2回(1960年11月27日)